TEEP NEWS LETTER Vol.30
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ネススクールができたので、2期生として入学しました。 思えば九州大学で指導教員だった永田晃也先生に知識経営や技術経営を学んだこと、高田仁先生の産学連携マネジメント論を受講したことが大学教員を志す最初のきっかけでした。高田先生が現場の仕事をしながらゼミを持ち、研究活動もされている姿を見て、自分もいつかこんな活動をしたいと思っていました。私の実務家教員としての一つのロールモデルは高田先生と言えると思います。 ビジネススクールを修了する年に島根大学の産学連携部門の専任教員の公募を目にしました。35歳以下という若手の公募ではあったのですが、産学連携に直接関わる経験はなく、正直なところ他に適任者がいると思っていました。でも、当時は行動力の塊でもあったので、島根まで話を聞きに行きました。どんな仕事でどんな人材を求めているのですかと、担当の北村寿宏先生に直接伺いました。 そこで北九州テレワークセンターで行っていた行政と企業のコーディネート業務の経験や、大学と連携した起業家育成塾の運営、大学発ベンチャーの支援などは産学連携と共通するところがあると気づきました。これらの経験を評価していただき、2006年に島根大学に着任しました。 産学連携センターでは、自分で自分の仕事を作っていかなければならならず、いい意味で自由にさせていただけたと思っています。ちょうど、オープンソースのプログラミング言語Rubyのプロジェクトが立ち上がったところでした。しまねオープンソースソフトウェア協議会の事務局に入ったり、国際会議の立ち上げに関わったりして、これらの活動を通じて、地域の方々に自分という存在を認識してもらいました。その結果、産学官連携に関わるさまざまな相談が持ち込まれるようになり、私もそれらの相談の一つひとつに地道に応えていきました。    地域からはどんな相談があったのですか。 地元の中小企業からの相談が多かったです。技術的な相談もあれば、学生とこんなことができないかといった、自分からすると「これは産学連携なのか?」と思うようなこともありました。他にも産業振興財団や商工会議所・商工会、県庁、市役所からも問い合わせがありました。 私の相談対応スタイルは、大学に来てもらうのではなく、「せっかく相談していただけるのだから」とできるだけ先方に赴くようにしました。自分で各地に出て行きネットワークを作りつつ、一件ずつ細やかに対応していました。 少しずつ私の中にコーディネートのノウハウが積み重なり、また地域の皆さんも「こういう相談なら大学に対応してもらえそう」というコツのようなものをつかんでいただけるようになりました。最初の相談は上手くいかなくても、二つ目、三つ目から具体的な案件として動き出してきたように思います。それができるまで、一年くらいかかりました。   例えば理系の技術的な相談は先生のご専門ではないこともあるかと思います。そうした場合はどう対応されたのでしょうか。 確かに分からないことだらけでしたが、分からない専門用語は一つずつ調べ、研究室を訪ねてとことんお話を聞きました。私自身が、さまざまな研究分野に興味を持ち、研究者の方々からお話を聞くことが楽しかったことが大きかったように思います。 補助金の申請などは私にも専門性がありましたので、少しはお役に立てたかと思います。例えば、科学技術振興機構(JST)の「シーズ発掘試験」の申請では、研究者一人ひとりとがっつり組みました。JSTの広島の出先機関に通って一つ一つの申請書にコメントをもらい、何度もブラッシュアップを行いました。 情報に付加価値を付けて提供することは強く意識していました。公募情報をいち早くお伝えする、説明会に参加して、公募の目的などの行間を読んで、それらを自分の言葉でまとめて提供するなどです。そうして自分の「顧客(クライアント)」を増やすことは常に意識していました。   先生のおっしゃる「顧客(クライアント)」とは誰でしょうか。 コーディネーターにとっての顧客は大学であり大学の研究者です。そして大学の地域貢献というミッショ「クライアント志向」を産学連携に生かす

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