に対する「目的と手段が転倒している」という批判につながっています。 また、グループ・ワークにはかなり時間を要しますから、講義で教える時間は少なくなります。そのため学習内容の検討がおろそかになったり、単純化されることを危惧する声もあります。 さらに、実務家教員として活躍される皆さんに特に気をつけていただきたい点もあります。学生たちに「アクティブ」に学んで欲しいあまり「ディベートや意見交換を活発にできなければ、これからの時代は生き残れない」と話される方もいらっしゃいます。これでは人前で話すことが苦手な学生は、参加できなくなってしまいます。工夫により苦手な学生をフォローすることは可能ですが、アクティブ・ラーニングは決して議論やプレゼンを強制するためのものではありません。 では、こうした形だけのアクティブ・ラーニングに陥らないようにするためにはどうすればよいのでしょうか。 まず、教授デザインにおける「双子の過ち」を避けることが必要です。一つは「網羅主義」といい、教科書にある内容を教えきることに執着する過ちです。もう一つは学生が活動さえすればよいとする「活動主義」です。 双方に共通する問題は、教員が何を身につけさせようとしているのかという「教育目標」が判然としていないことです。また、その教育目標を提示するためには学習パフォーマンスの開発とその評価が必要なのに、なされていないことです。 例えば「座学で知識を教え、その後実習に行けばよい」と考えていないでしょうか。座学でも実習でも、それを通じて何を教えたいのか、またそれが学生に身についたか否かをどう判断するのかを設計しているでしょうか。その設計がなければ、多忙な現場で学生は「邪魔にならないよう隅っこにいた」となることも珍しくありません。 例えば「個々のスペシャリストがどんな判断をしているか。その背景にどんな問題解決のスキーマを持っているか」を考えさせたいとき、「どんな授業や実習にしますか」「何を目標にし、何に基づいて学生の達成度を評価しますか」ということです。 では次に、何が達成されれば「アクティブ・ラーニング」と言えるのでしょうか。それは「深い理解 deep understanding」です。 「第二次世界大戦」をテーマとする授業の課題に取り組むには、「ヒトラーが台頭した」といった「事実的知識」やそのほかの情報を集めて年表にするといった「個別的スキル」を必要とします。けれど、これだけでは学んだことをすぐに忘れてしまいます。知識やスキルだけを求めるのではなく、上の図にあるように「転移可能な概念」「複雑なプロセス」との間を往還しながら、さらに深い「原理と一般化」に至ることを目標にします。 第二次世界大戦について調べるうちに、原爆が落とされたのは日本だけであることや、当時のソ連と日ソ中立条約を結んでいたことも知る。すると「戦争における手段と目的」は分けて考えられるし、考える意義があることを特定の史実を超えて理解できます。これが「転移可能な概念」です。また、日本だけでなく他国の年表と組み合わせる「複雑なプロセス」を経て、同じ戦争であっても見方が全く異なりうることが理解できる。こうした理解に到達して初めて、手段と目的を区別し、あるいは立場を変えることによって「戦争の中には“正義の”戦争とみなされるものがある」という一般化に到達することができるのです。すると「東シナ海で国際紛争が起こった」というニュースに今後触れた際にも、学生たちはこれらの概念や原理、一般化を道具に考えられるのです。これが「学習の転移」です。 学習の成果を別の状況でも活用するためには、この「概念」的な理解を深め、原理や一般化までたどり着く「深い理解」が必要です。概念的な理解とは、例教育目標を明確に「深い理解」に到達する授業を
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