ワールドカップの会場で(宮城スタジアム) もともとサッカー少年でした。高校でも国体選抜に入るほどサッカー一筋だったのですが、社会人になる時、ちょうど2002年の日韓ワールドカップ開催が決まり、ぜひワールドカップに関する仕事をしたいと思ったのが電通グループ入社の動機でした。ワールドカップでは日本組織委員会に出向し、国際プロトコル、つまり“おもてなし”の部分を担当。毎日がトラブル続きでしたが充実していました。 そんな私がアカデミックに移った大きなきっかけは2000年代初頭、PRを担当していたクライアントの不祥事でした。マスコミ対応の不十分さから、大きなバッシングを引き起こしたのです。当時はまだコンプライアンスやCSRなどの考えが十分ではなく、企業経営者にコミュニケーションの重要性を説いても、聞く耳を持ってもらえませんでした。 経営と広報、コミュニケーションの重要性を訴えたいと、立教大学の社会人大学院に入り経営を勉強。やり出したら勉強が楽しくなって、仕事と両立しながら大学に通いました。まさに寝る時間を削り、まだ独身だったので土日は大学の図書館に入り浸るほどに没頭、ドクターを目指しました。 そのうちに北大と縁ができて、ちょうど「国際広報メディア・観光学院」という大学院ができたこともあり、公募で北大の教員になりました。 再び企業に戻ったのは、どんな変化があったのですか。 北大ではすごくいい環境で研究ができました。しかし、やはり東京に情報が集中しているため、何かあるたび東京に出なければなりませんでした。当時はZoom(ズーム)などありませんでしたから(笑)。さらに家族の健康問題もあり、そろそろ東京に戻りたいなと思っていた時、前の会社の上司に「いつでも戻って来いよ」と歓迎されました。 ちょうど2011年ごろ、東日本大震災の発生した年です。スマートフォンが一気に普及し、コミュニケーションや情報流通の構造が変わっていく時代でした。当然、広報の在り方もまったく違ったものになると感じ、もう一度、現場に戻るのもありだと思ったのです。 実際に戻ってみると、電通もデジタル分野をどうしていくかを模索し、新しい部署ができるなど変化していました。私はコーポレート・コミュニケーション部長としてあらためて企業広報と向き合うことに。個人が情報を発信する時代となり、企業もマスコミ記者を相手に右から左へ情報を流すだけではいけない、プロセスやストーリー、客観的なデータを重視して世のためになる情報発信ができなければいけないと、現場で試行錯誤しました。大学にいたら経験できなかったことで、時代の変化にキャッチアップできたのはある意味、ありがたかったです。 大学における実務家教員の役割について、どう感じていますか。 学生からすれば、実務家教員には「聞く耳を持ってもらえる」のが利点ではないでしょうか。ただ教員側が自分の経験をひけらかすだけではダメ。その裏にある理論や理屈などを自分で消化して説明できないと、学生もだんだん引いていってしまいます。先人の知見に基づいた発想や、学問領域のコアになるものを自分の中に持っていなければならないのでしょう。 そのためには本を読むことはもちろん、実社会の人と会って議論をすることが大事です。電通時代の人脈をたどることもありますが、それ以外の企業や行政、そして大学の中でも積極的に新しいネットワークをつくろうと心掛けています。 アカデミックな研究重視型の教員と実務家教員とは、補完関係や相乗効果が望ましいですが、関係性を築く上での難しさはありませんか。 研究重視型の先生とも一緒にやっていくことアカデミズム教員とも積極的に交流し相互に刺激鵜飼鵜飼鵜飼北見北見北見北見
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